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●木造時代の藤ノ森合同宿舎

昭和34年、それまで空き地だった池ノ内町官有地が造成され、公務員住宅が建ち並び始めました。京都市内の国立大学に勤めていた結婚4年目のは、大学近くの下宿からこの地に引っ越してきました。公務員住宅は現在は鉄筋コンクリート造り(RCタイプ)の集合住宅が一般的ですが、当時は木造の庭付き一戸建(Wタイプ)が主流でした。我が家の一角を皮切りに、周囲にやがて多数の公務員住宅が建ち並びました。

その後、急速に都市化が進み、庭付き一戸建を建てていたのでは土地が足りなくなってきたためか、RCタイプへの建て替えが進められることになりました。我が家が住んでいた一角は最も古かったため、真っ先に建て替えの対象となり、入居して16年目の昭和50年に立ち退きました。我が家があった場所には現在、藤ノ森合同宿舎14号棟が建っています。


昭和36年正月の我が家。私はまだ生まれていません。


昭和34年5月撮影。これがWタイプと呼ばれる、木造一戸建当時の藤ノ森合同宿舎です。


昭和34年6月撮影。このような木造平屋の住宅群が建ち並び始めました。


昭和34年5月撮影。自宅前の道路から東側を臨む。空き地の向こうに藤森中学校が見えます。この空き地にもやがて、公務員住宅が立ち並ぶことになります。同じ場所は今は右写真のようになっています。→

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昭和35年5月撮影。その空き地で父が庭に使う土を掘っています。向こうに見えるのは藤森中学校です。当時は、現在の青少年科学センター(昭和44年開館)の敷地も藤森中学校の校庭で、とても広い中学校でした。


昭和35年5月撮影。公務員住宅の敷地から北方向を臨む。木造2階建の黒い大きな建物は、千種染工という会社でした(現在のチグサ建築設計事務所)。


昭和36年2〜3月頃撮影。かつての空き地に、2階建の公務員住宅が建ち始めました。


昭和36年3〜4月頃撮影。2階建の住宅群はほぼ出来、道路の整備が始まっています。


昭和37年4月撮影。2階建の住宅群ができました。こちら側と2階建住宅群側との間の道路に少し段差があるのがわかります。この段差はRC造りになった現在も右写真の通りくっきり残っています→。

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●建て替え中の藤ノ森合同宿舎(昭和54年)

我が家が木造の藤ノ森合同宿舎から立ち退いて4年後の昭和54年に、私は久しぶりに我が家の跡の取材に行きました。

昭和54年

現在


右前方に1棟だけ建っているRC棟が我が家の跡です。我が家よりも後に建った右手前の2階建群はまだ残っていました。同じアングルで見ると今はこのようになっています。→

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我が家の跡に建つRC棟の北西側から南を臨む。柴田染工の跡地に昭和51年に建ったマンション(コーポラス伏見)が正面に見えます。同じアングルで見ると今はこのようになっています。→

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我が家の跡に建つRC棟の西側から東を臨む。我が家の前の道路は以前のままで、向かいの平屋群はまだ残っていました。同じアングルで見ると今はこのようになっています。→

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我が家の跡地に建つRC棟を南東から臨む。
(私有地内のためストリートビューはありません)



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←中央奥が、我が家の跡に建つRC棟です。我が家の東(藤森中学校側)には児童公園があり、私は毎朝ここから深草小学校へ集団登校していました。昭和54年当時にまだ残っていた戸建て時代の敷地図には、「墨染合同宿舎」と表記されています。

←児童公園から2階建群を臨む。中央奥では新しいRC棟の建設が始まっていたようです。

●建て替え中の藤ノ森合同宿舎(昭和56年)

1981年5月4日に、今度は8ミリフィルムで我が家の跡の取材に行きました。Youtubeにアップロードした動画をご覧下さい。他のWタイプもRC棟に建て替わりつつある頃です。千種染工の黒い木造2階建て社屋はまだ健在でした。



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2011年10月1日開設
2011年11月6日最終更新