家庭遺産の館 |
私はモノを捨てることが苦手です。実家に残されていた物の量を見ると私の両親も同様だったようで、遺伝です。 1985年に母が、1996年に父が亡くなり、京都の実家は空き家になりました。私は社会人になって京都を離れてからも、生活で溜まったものを自宅から空き家の実家にせっせと移して溜め込んでいき、両親の遺物と混ざっていきました(下写真)。
2012年、実家を処分することになり、私は代わりの置き場所を探して、トランクルーム、信州の古民家、近郊の既存不適格再建築不可中古住宅物件等々を比較検討し、結局、バブル経済期に建てられて時代が変わって激安になったリゾートマンションを買って置き場にするのが最も安く済む(捨てるという選択肢を除いた場合)という結論に至り、実行しました。
2012年8月に移動して1年余りかけて、東京の自宅から休日に何度も出向き、あり合わせの段ボール箱に未整理で詰め込んでいた物を、長期保存に耐える統一箱に分類して詰め替え、さすがにどうしようもない物だけは捨てて、ようやく全体像が一覧できるようになりました(下写真)。
このサイトは、そうして山梨県富士山麓世界文化遺産内にある某リゾートマンションの一室に集積された、ある家庭の遺産の、ほんの一部をご紹介するものです。2013年8月9日に「反断捨離の館」として仮オープンし、一時フェイスブックページ上に移行したのち、2014年4月8日に「家庭遺産の館」としてリニューアルオープンしました。
●この一家に関する関連サイト当サイト作者へのメールの宛先は | です。 |
●石鹸・洗剤類 「ミツワ石鹸」はかつて一世を風靡していた家庭用石鹸ですが、会社は1975年に倒産しました。 合成洗剤「全温度チアー」は米国P&G社が日本に進出した際の第一号製品です。 P&G社のウール用合成洗剤「モノゲン」も今はありません。 | |
●清涼飲料水のビン 京都に住んでいた私は両親の実家の長野県に遊びに行った時に、当時まだ関西では販売されていなかったコカコーラやスプライトの1リットルビンや500ミリリットルビンの大きさに感動し、持って帰りました。 昔のファンタも開封せずに置いてあります。 近所の駄菓子屋で売っていた地場飲料のビンを集めることも趣味にしていました。 | |
●清涼飲料水の缶 ちょっと昔の缶です。 | |
●チューブ入り歯磨き こういう形のチューブ入り歯磨きを最近は見かけず、フタを下にして自立するタイプばかりです。チューブは昔は金属製、後にラミネート製になりました。 | |
●カルピスの箱 カルピスが入っていた段ボール箱です。昔のカルピスはこんな商標でした。「初恋の味」は昔のキャッチフレーズです。 | |
●プラレール 子どもの頃、近所の友達が集まって、よく遊んでいました。 | |
●子ども時代の宝箱 箱のフタに貼ってあるシール「ホルスの大冒険」なるアニメは見た記憶がありません。 唐突に「とび出すな車はきゅうに止まれない」の標語が入っているのは、交通事故死者数が年間一万人を超えて社会問題になっていた当時の時代を象徴しています。当時の小学校でもやたら交通教育を受けた記憶があります。 | |
●コーワ蛙 これでよく遊びました。当時のコーワには、子供の蛙の他に、お母さん蛙(キューピーコーワゴールド)やレオポンなどもいました。 | |
●プレイボーイ 父が購読していた、創刊したばかりの頃の日本版プレイボーイ(1975年)です。 | |
●昔の文房具 「ニチバンセロテープ」と「セキスイセロテープ」のどちらにも「登録商標」と書かれています。 シャチハタのスタンプ台は「品級高最」と右書きですので戦前製と思われます。「シャチハタ」の社名の由来が一目瞭然なマークがまだ使われていました。 | |
●自分の机 姉のお下がりで私が使っていた机の引き出しに、小学校〜大学時代のガラクタが詰まっています。 | |
●私の目覚まし時計 大学を卒業する頃まで使っていた目覚まし時計です。SEIKOSHA(現セイコー)のブリキ製のゴツい時計で、けたたましいベル音を鳴らしました。 | |
●薬 こんなものを捨てずに後生大事に置いているのは、やはり異常な一家でしょうか。 「乳化キノホルム」は、スモン病の原因成分だったはず。 「アイフ」は戦前の胃腸薬で、パッケージに日本統治時代の朝鮮向けのハングル文字が併記されています。 富山の置き薬の引き出しは頑丈です。 高野盛大堂の鶴印柔軟オブラートや、軟膏「オゾ」は、どこの家庭にも常備されていました。 | |
●傑作亀新聞 私が発行していた家庭内新聞です。「けっさく新聞」というのが最初にありました。第1号は風呂場の洗い場で偶然大きなシャボン玉ができたという大事件を絵入りで報じたものと記憶しています。その出来事がけっさく(おかしい)だったのが、紙名の由来です。残念ながらその現物は残っていません。1969年5月7日号以降が残っています。その後、姉が「ワニ新聞」、私が「かめ新聞」というのを並行して発行しました。これらの紙名は、それぞれのお気に入りのぬいぐるみや玩具の名前です。姉のワニ新聞はほどなく廃刊となりましたが、私のかめ新聞とけっさく新聞は1970年9月4日に統合して「けっさくかめ新聞」となり、現在に至ります。2013年8月12日に14,000号を迎えました。 | |
●亀のポンちゃん 「かめ新聞」の名前の由来で、私のお気に入りだった亀の玩具(プラスチック製)です。1968年に米国に行った際に現地で買ってもらったものです。ホノルルの海岸で沖に流されてしまい大泣きしましたが、波に押されて無事戻ってきました。 | |
●風車型置時計 羽根が1本欠けていますが、両親の新婚時代(1955年頃)の写真に、すでにこの時計が写っていました。今はもう鳴りませんが、オルゴールのメロディは今でも覚えています。 | |
●編み機 昔の家庭には、編み機というものがありました。主婦がこの機械で子どものセーターなどを自宅で作っていました。 | |
●ステレオ 「みんなのうた」やマンガのソノシートなどもこれで聴きました。私の音楽体験の原点です。 | |
●「ミノルタ ミニ」スライドプロジェクター 家庭用のコンパクトなプロジェクターです。 | |
●ミノルタミニ用スクリーン 家庭内でよくスライド上映会をしました。ミノルタの旧社名であるCHIYOKO(千代田光学)のマーク入りです。 | |
●8ミリ映写機 一見、ブラウン管テレビのように見えますが、8ミリフィルムの映写機です。部屋を暗くしてスクリーンに投影する必要がありませんでした。 | |
●第一銀行の看板 大学時代にキャンパスに捨ててあったのを私が拾ってきたものです。第一銀行は第一勧業銀行を経て現在のみずほ銀行です。 | |
●就活資料(1986年頃) 大学は電気工学科でした。バブル経済が始まった時期でもあり、電気工学科の学生は当時は引く手あまたで、こちらから請求せずとも会社案内がドカドカ届き、コンテナ2杯分になりました。メーカー系が多いですが、銀行や証券会社を始め、それまで電気と縁の無かった業種からも多数の会社案内が届きました。今や電気工学は理系の中で最も不人気な学科だそうで、日本の電機メーカーには業績向上に頑張ってもらいたいものです。 今もある企業、統合した企業、消えた企業。これら約30年前の企業リクルート資料を精査すれば、日本企業の栄枯盛衰の片鱗が見えてくるかもしれません。そのうち整理してみたいと思います。 | |
●京都大学工学部電気系学科旧館の赤レンガ 私が在籍していた頃は明治時代の赤レンガ校舎がまだ使われていました。卒業後まもなく取り壊しとなり、サークルの後輩に頼んで解体現場から1個確保してもらいました。 | |
●アジビラ(1980年代) 昔の大学では、学生活動家によるこんなビラが盛んに配られていました。私はもらったビラを捨てずに段ボール箱に蓄積していました。スキャンしてこちらのサイトで公開しています。 | |
●ガリ版の鉄筆 昔、ガリ版という印刷物を作る際に、蝋でできた原紙に字をガリガリひっかいて書く際に使った筆です。ガリ版で印刷されたアジビラの文字が角ばった独特の字体をしているのは、そのためです。 | |
●電電公社発行(1983年)の最後の電話帳(京都市版) 1985年に民営化されてNTTになる直前の電話帳です。 | |
●そろばん付き電卓 技術革新の過渡期にはこんな奇妙なハイブリッド製品がありました。 | |
●そろばん付き貯金箱 小学生の頃に通っていた珠算教室(都珠算研究会)で、何かのポイントを貯めて貰った記憶があります。 | |
●はんだづけの台にしていた郷ひろみの下敷き ロッテ製菓のおまけのアイドル下敷きですが、小中学生の頃に電気工作ではんだづけをする時の台にしていたため、焦げ跡やペーストのしみが多数付いています。別に郷ひろみに恨みがあったわけではありません。 | |
●明治製菓のロゴマーク変更 明治製菓が製薬部門を切り離して(→Meiji Seika ファルマ)、菓子部門と明治乳業とが会社統合する準備として、両社がロゴマークを統一した結果、明治製菓の同じ商品でロゴマークだけが変わった新旧比較です。統合後の会社は総合食品会社になったので社名は「明治食品」にでもすればよかったところですが、同名の子会社が既にあったためか、「株式会社明治」になりました。 余談ながら、その明治食品(長野県上田市)は、私の曽祖父が経営していた製糸工場(依田社滝澤製糸場)(関連情報はこちら)の跡地に本社工場を構えています。同社の番地一番違いの隣接地には私の親族が今も居住しています。 | |
●依田社滝澤製糸場(かねワ)の糸巻き その親族から貰った、滝澤製糸場で使われていた糸巻きです。工場のマークである「かねワ」が刻印されています。 「依田社」日本最古のPRフィルム(上田市立丸子郷土博物館のサイト) | |
●丸子の人参飴 製糸業が衰退した後、長野県小県郡丸子町は高麗人参の産地・集積地として生き残りました。高麗人参を水飴状に加工した製品を出荷していました。(未開封) | |
●滝澤孝日記(大正11年〜昭和47年) 長野県小県郡丸子町に亡くなるまで住んでいた私の祖父の日記です。
大正12年9月1日(関東大震災)
昭和20年8月15日(終戦) | |
●株券 母の独身時代(昭和30年以前)の八十二銀行の株券が出てきました。今も有効なのかな。 | |
●米穀通帳 お米が配給制だった時代の制度の名残りが、なぜ昭和36年頃まであったのでしょうか。 | |
●ブーフーウーのおおかみ NHK人形劇ブーフーウーのおおかみ君は当時の人気者でした。 | |
●小中学校教科書・ノート・作文 小学校3年(1970年)の国語教科書には、編集代表者は「路傍の石」の作家であり当用漢字の導入など戦後の国語改革にも尽力した山本有三、さし絵の1人に岩崎ちひろと書いてあります。 私の作文も残っています。6年生の姉の失敗や自宅に窓から入ったことなどを暴露しており、既に変な子供だったことが読み取れます。 | |
●ビジビジ 幼いころの私が怖がっていたらしい玩具です。 | |
●学習と科学 小学生時代は学研の「学習と科学」を愛読していました。4歳上の姉が購読していた分も、むさぼり読んでいました。特に内山安二さんの「オットー・ウゴカンダー博士の大発明」が好きでした。 いわさきちひろ、馬場のぼる、園山俊二、モンキーパンチ、やなせたかし、そうそうたる人たちが無名時代から発表の場にしていた学習雑誌でした。 | |
●学研のふろく他 どの付録にも深い思い入れがあります。 | |
●カメラ(学研のふろく) 私の写真趣味の原点です。裏ブタに名刺大の低感度の印画紙を入れ、レンズキャップを付け外しして撮影しました。撮影された印画紙はふろくの液(現像と定着が一つの液で出来るものでした)で現像定着しました。出来た写真は陰画になるので、もう1枚の印画紙を密着させて電気スタンド等で露出し、それを現像定着することで陽画を得ました。印画紙同士の密着焼きでも結構奇麗に焼けたことを覚えています。キャップを紛失してしまったので、醤油瓶のフタの内側をフェルトペンで黒く塗って使っていました。 | |
●マンガ類 私はもちろんマンガ世代です。1960年代は鉄腕アトム(カッパコミックス)、1970年代のジャンプは、ど根性ガエル、トイレット博士、はだしのゲンです。連載当時のはだしのゲンは同誌の他のマンガと同様に低俗扱いされていたのに、最近の世間からの持ち上げられ方には、連載当時の雰囲気を知る者として、ちょっと違和感があります。大人って勝手なものだ、と。 Disneylandの邦訳である「ディズニーの国」(1960年頃)は姉が読んでいました。裏表紙広告の任天堂骨牌の新発売ディズニートランプは、花札メーカーだった同社を大きく飛躍させたヒット商品ですが、描かれているミッキーマウスはバッタ物のようなキャラクターです。 アポロが月に行った頃なので、宇宙ものの科学マンガも沢山読みました。 | |
●ニプコー円板 テレビの父、高柳健次郎氏の伝記を読んで感動した小学生の私は、機械走査式テレビジョンを自分で作ろうともくろみ、らせん状に穴を開けた走査板(ニプコー円板)を送受信用に2枚作り、既に入手困難だった光電管の代わりに太陽電池を使って送像を試みましたが、失敗しました。そんな簡単にできるのなら高柳先生も苦労しなかったはず。よく考えず準備も手抜きで直観だけで突っ走ってやりっ放すのは、私の人生そのものです。 | |
●VHSビデオテープ 1982年3月から録り溜め続けて700本。もはやテレビ文化史の記録になっているかも。1980年代の録画番組リストはこちら。 | |
●父のカメラ機材類 引き出しには、フィルムの箱やマグネシウム粉(閃光用)が雑然と入っています。 父が独身時代から愛用していたらしいキヤノンカメラには、Made in occupied Japan(占領下の日本製)とありますから、昭和20〜26年の製造でしょう。 | |
●父のノート類 父は大学で数学を専攻し、そのまま大学に残りました。戦中〜戦後のノートが大量に残っています。ノートが統制品で貴重だった頃です。父の業績に関してはこちら。 | |
●京都大学一覧(昭和18年〜28年) 京都帝國大學から新制京都大学に変わる時期の記録です。父が学生から助手になった頃です。 | |
●父の蔵書 戦前の岩波新書などです。昔は書籍が貴重で、父が家を買った際には沢山の蔵書を売却して資金を作ったのだそうです。今は本を売るというとブックオフに行く感覚ですが、価値が違ったのでしょう。 | |
●父の著書 父は大学の授業で使うための教科書を自分で書いて学生に買わせていました。 | |
●アメリカ渡航 1967年から68年にかけて、父が米国コーネル大学に1年間滞在したのに合わせて、家族も夏休みの1か月だけ同行しました。その遺物が段ボール箱2つとスーツケースに入っています。 ディズニーランド(カリフォルニア)のガイドブックは、ウォルト・ディズニー社長が園内でサイン攻めになっている表紙が印象的です。 スーツケースの中からJALの救命胴衣のつけ方のリーフレットが出てきましたが、これは持ち帰ってはいけなかったのでは?? 自由の女神像のところで拾った鴎の羽根が残っていました。私の手書きのタグが付いています。 | |
●衛生洗浄器 シャワクリーンVI-210S ナショナル(現パナソニック)製のタンク式のウォッシュレットです。今はこういう製品は見かけませんが、和式トイレなどでは便利で、私は現用中です。取扱説明書はこちら。 | |
●ガールスカウト用メモ用紙(1950年代) 母は娘時代(昭和20年代)にガールスカウトで活動していました。当時のメモ用紙が残っていました。洒落たデザインです。 | |
●コイン収集 父と私はコイン収集に凝っていました。明治大正期の古銭をストックブックに収集しているのはいいとしても、1円玉を昭和年号ごとに分けてフィルム缶や太田胃酸缶に一杯詰め込んで残しているところまでいくと、やや病的な感じがしなくもありません。 | |
●切手収集 父は切手も集めていました。私はやっていなかったつもりなのですが、毎年の年賀はがきの全種類(普通紙、インクジェット、寄付金付き、、、)を今も必ず2枚ずつ買い集めている自分に気がつきました... | |
●初めて手に入れた500円硬貨 大学生の頃の1982年(昭和57年)に500円札が硬貨に変わりました。最初に受け取った500円硬貨を記念に置いてあります。 ちなみに最初に使ったのは大学横の書店(ナカニシヤ書店)で、レジのアルバイトの女の子の気をひこうと500円硬貨を差し出して、そしらぬ顔で店を出る前に振り向き、レジの女の子たちが2人でその硬貨を手にしてキャーキャー言い合っているのを見て優越感に浸って店を後にしました。青春のしょーもない思い出です。 | |
●丸物百貨店の紙袋 京都駅前にあったデバートの紙袋です。昭和52年に京都近鉄百貨店に店名変更し、その後廃業して、現在は跡地にヨドバシカメラが建っています。丸物百貨店は京都の他に、東京(池袋)や岐阜にもありました。池袋の東京丸物は1969年に店名を「パルコ」に変え、今も首都圏を中心として支店を展開しています。関連情報はこちら | |
●電子郵便(レタックス)のチラシ 1987年頃の郵便局のチラシです。鶴瓶さんが若いです。 |