たきざわ家の阪神・淡路大震災体験

 1995年に、6千人以上の人が亡くなった兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が起きた時、たきざわ家は、震源から8キロメートルしか離れていない兵庫県明石市に住んでいました。テレビニュースで被害が大きく報道されていた神戸市の中心部より、明石市は被害がずっと小さかったものの、それでも市内で10人くらいの人が亡くなりました。たきざわ家は、1997年に東京の昭島市に移り住みましたが、あの地震のことは、決して忘れてはいけないと今でも思っています。

 以下の体験記は、たきざわ家が阪神・淡路大震災の時に体験したことを、私が震災の直後に詳しく書いて、ホームページで公開したものです。

神戸駅
たきざわ家の安否を尋ねるNHKの臨時番組
(地震が起きた日の夕方に放送されました)
震災直後に大荷物を抱えてJR神戸駅から乗り込む
娘と私

線

 1995年1月17日午前5時46分に、淡路島北東約3kmの明石海峡を震源地として、「兵庫県南部地震」(阪神・淡路大震災)が発生しました。
 この文章は、当時、兵庫県明石市に住んでいたたきざわ家が、どのような体験をし、どのように行動したかをまとめたもので、震災約4か月後の1995年5月12日にインターネットホームページ上に公開した体験記に基づいています。被災地にいたすべての人達が多くの体験をした中で、被害が比較的軽微だった明石市内に住んでいたたきざわ家は、語れるほどの体験はしていません。しかし、あの大きな災害の記憶を薄れさせないように、自分たち自身が後で読み返すつもりで、体験したことを書き残しておくことは、それなりに意義があることと私は考えました。従ってこの文章は、たきざわ家が自分たちの備忘のために残しておくという観点からまとめたものですので、無味乾燥な記録が主体となっている点をご了解下さい。


●家族構成

私…神戸市西区にある研究所に勤務。
妻…神戸市東灘区の六甲アイランドにある外資系企業に勤務。
娘…当時1歳3か月。

●住居

 たきざわ家は当時、JR山陽本線・山陽新幹線の西明石駅から南(海岸方向)へ徒歩4分の位置にあったマンションの5階に住んでいました。そのマンションは、11〜20階建3棟・総戸数600戸の、明石でも有数の大規模開発分譲マンションです。西明石駅は三ノ宮(神戸中心部)から西へ約25km(在来線で約20分)、大阪から約56km(約40分)の位置にあり、駅周辺には大阪、神戸に勤めるサラリーマンが多く住んでいます。間取りは図1に示す通り2LDK(和室6畳、洋室5.6畳、LDK10.1畳)で、たきざわ家は普段はLDKで生活し、和室で3人並んで寝ていました。洋室は衣類・書籍置き場兼物置のようになっており、未整理の状態でした。たきざわ家の住戸の長辺は南東〜北西方向になっていて、家具類も、和室のタンス(図1の(1))と洋室のカラーボックス書棚(図1の(2))以外は、長辺に合わせて南西あるいは北東に正面を向けて置いてありました。


 たきざわ家は、昼前に車で、神戸市東灘区の人工島・六甲アイランドにある妻の同僚宅で行われるホームパーティへ向かいました。妻と娘を同僚宅に送り届け、パーティの間、私は人工島・六甲アイランドを一人で散策していました。私は1月6日にインフルエンザで39度の熱を出してから全快しておらず、その日も気分が悪く、食欲はありませんでした。妻が日頃から「こんな無機質な人工都市で働くのはイヤ」とぼやいている六甲アイランドを初めてゆっくり散策しました。ショッピング街は人がまばらで、喫茶店に入って本を読みながら時間をつぶしていました。
 夕方、たきざわ家は阪神高速道路神戸線を通って午後5時過ぎ、明石の自宅に帰着しました。図2は、この日の阪神高速道路神戸線の通行券です。この道路がこの翌朝に横倒しになり、復旧まで1年以上かかる事態になるとは、一体誰が想像したでしょう。熱を測ったところ、娘は39度、私も38度の熱を出していることがわかりました。2人共インフルエンザにやられたのです。その年のインフルエンザは熱が2回出ると聞いていましたが、その通りになったようです。私は布団を敷いて寝ました。
 夕方、小さな地震が起きました。夕食準備中の妻が気づかない程度の小さな揺れでしたが、布団で寝ていた私は気がつき、とっさに時計を見ました。午後6時28分でした。(この地震は、翌1月17日付朝日新聞朝刊に小さく報じられましたが、後に阪神淡路大震災の“前震”と呼ばれることになります) この後、娘に熱さましの座薬をしました。私は午後8時頃に一旦起きて夕食をとりました。
 私は翌日の仕事を休むことにし、職場の同僚にパソコンで欠勤届の電子メールを送りました。


 午前5時46分、私は、猛烈な揺れで目が覚めました。私は前日の夕方に同じく布団の中で地震を感じたので、「あっ、また来た」と思いました。再来を予期していたわけではないのですが、不意を突かれた感じではありませんでした。とはいえ、私は猛烈な揺れに落ち着いていたわけではなく、布団の中で「じしぃー、じしぃー、じしぃー、…」と叫ぶことしかできませんでした(「地震」と言おうとしたが、声がうわずって「ん」が発声できなかったのです)。後から妻に聞いたところでは、私は揺れの間「ウォー」と叫んでいただけで、その声の方が地震よりも怖かったそうです。娘も目を覚まし、「ふぎゃー」と泣きました。妻は私の「じしぃー」の声に「わかってる、わかってるって!」と叫びつつ、泣く娘を抱き締めていました。結局私は家族を全く助けようとせず慌てていたわけで、バツの悪い思いをしました。
 揺れがおさまりました。娘は再び寝てしまいました。落ち着いてから、停電していることに気がつきました。私と妻は恐る恐る布団から這い出し、まず道具入れの引出しから手探りで懐中電灯を取り出しました。点灯しましたが、暗すぎます。電池が弱っていたのです。同じ引出しから、新品の電池が見つかりました。それに入れ換えたら、今度は全然点灯しません。(夜が明けてから確かめたら、この電池には「いなげや」の値段シールが付いていました(注1)) 仕方ないので元の電池に戻し、暗いながらも家の中を点検しました。
(注1)「いなげや」は、東京多摩地区にあるスーパーマーケットです。私が東京から神戸に転勤したのは1989年(震災の6年前)なので、この電池は6年以上前に買ったものであることになります。家にガラクタばかり置いておくと災害時に役に立たないという教訓です。
 炊飯器が床に落ちています。足元には食器棚から落下した食器類が散乱しています。娘が起き出して這ったら危ないので、とにかくこれを片付けなければなりません。洗面所の棚の化粧品類が一つ残らず洗面台に落下しています。日頃から未整理で物を無造作に積み重ねているだけの洋室は、惨状が予想されたので、怖くて覗けませんでした。恐る恐る覗いてみたら、唯一南東方向に向けて置いていたカラーボックス書棚(図1の(2))が、それと直角(北東方向)に置いていた書棚(図1の(3))にもたれて斜めに前のめりにひっかかって止まり、上半分に入れてあったファイル類が落下していただけでした(写真1)。このことから、この大地震は南東〜北西方向に揺れたことがわかりました。たきざわ家でもう一つ南東〜北西方向に正面を向けて置いていた、和室のタンス(図1の(1))が倒れなかったのは、幸運だったとしか言いようがありません。図1からわかりますように、このタンスの下には1歳3か月の娘が寝ていたのです....(注2)。夜が明けてから、ベランダの物置が前のめりに傾き、手すりに引っかかって止まっていたことに気づきました(写真2)

(注2)阪神・淡路大震災では、明石市内で、生後11か月の乳児が落下してきたテレビの下敷きになって亡くなっています。この日以降、たきざわ家は、寝方を図4のように変更しました。これは「妻を犠牲にする寝方」のように思われそうですが、身長と部屋の大きさとの兼ね合いや、娘に添い寝する関係など、種々の要因を考慮すると、この位置しか選択の余地がなかったのです。

 私は玄関からマンションの廊下へ出てみました。西明石駅方向はまっ暗で、たきざわ家のマンションだけではない大規模な停電であることをまず確認しました。向かいの棟では、懐中電灯を手に行き来する住人の姿が見え、話声が聞こえます。
 家に戻り、私はテレビの音声を受信できるラジオを取り出し、NHK総合テレビにダイヤルを合わせました。地震のニュースばかりで一般ニュースが全く無いことから、事態の重大さがわかりました。
 夜が明けた午前7時頃、私はカメラを手に西明石駅方向へ向かいました。途中にある西明石駅南商店街は、木造の家の壁が落ちたり(写真3)、瓦が路上に散乱したり(写真4)していましたが、大きく壊れた家は見当たらりませんでした。火災も起きていません。西明石駅ではコンコースの自動販売機が倒れ(写真5)、改札口は閉鎖され「復旧のめどは立たず」というなぐり書きの貼紙がされていました(写真6)。国道2号線のバイパスである明姫幹線(旧神明道路)の交差点まで足を伸ばしてみました。信号機が停電していたため、交差点内に車が入り乱れていました(写真7)
 自宅に帰ると、家族を放ったらかして無言でカメラを持って飛び出して行った私を、妻が怒って待っていました。マンションでは停電が長期化すると、汲み上げポンプの停止によって水道も止まるため、私は浴槽に水をためておきました。
 午前9時45分、送電が復旧しました。意外に早い復旧に私は驚きました。すぐにテレビをつけました。この時点では死者38人と報道されていました。
 ところで私と娘のインフルエンザは、地震騒ぎでいつの間にかどこかへ吹き飛んでしまいましたが、今度は妻の具合が悪くなり、しばらく横になりました。
 午後、私は、営業していた西明石駅前のコンビニエンスストアで、うどん等を購入しました。店内は非常食を買い求める客でごった返しており、パンや飲料は売り切れの状態でした。夕方、私は娘を昼寝させるため、車に乗せて明姫幹線を走りましたが、東向車線(神戸方面行き)が大渋滞になっていたため、一旦西へ向かってしまうと帰れなくなる恐れがあり、すぐに引き返さざるを得ませんでした。
 電話は、震災直後からかかりにくくなりました。しかし被災地内同士および内から外への発信は、外から内よりも比較的かかり易いようでした。私の職場の管理係から、安否確認の電話が入りました。職場(神戸市西区)は大した被害が無いとのことでした。「今日の勤務はどういう扱いですか」という私の質問に対して、「特別休暇です」の返事がありました。
 夕方、私は、商用パソコン通信サービス「NIFTY-Serve」へ接続し、明石の被災状況を全国に流しました。流したのは、私が見聞きした範囲の、大して有益な情報ではありませんでした。
 この日の晩、妻が夕食準備中に、とうとう断水しました。マンションの受水槽が底を尽いたのです。風呂の溜めおき水でしのぐことになりました。またガスも地震後、安全のためマンションの災害対策本部の呼びかけで各戸の元栓を閉めて使えなくなったため、食事は電気式のホットプレートによって調理するものが主になりました。たきざわ家は電気のみの生活に突入したのです。

【17日の食事】
 朝:買い置きのパンと牛乳
 昼:餅(正月の残り)
 夕:鳥の水炊(ホットプレートによる調理)

【本震の震度について】
 JR西明石駅の地震計(加速度計)が記録した本震の加速度は、水平方向が397ガル、垂直方向が319ガルだったそうです(朝日新聞大阪版2月16日付に基づく)。本震の推定最大値は、水平方向が推定600〜800ガルで、ちなみに関東大震災の推定値は300〜400ガルとされています(朝日新聞大阪版1月28日付に基づく)。明石市には震度計が設置されていなかったため(明石市初の震度計が設置されたのは3月20日)、本震の公式震度は発表されませんでしたが、明石市内では死者数名、全壊家屋百余軒、半壊家屋数百軒の被害が出ていましたので、震度6位はあったと思われます。
 震源地は、淡路島北東約3kmの明石海峡でした。地図で確認すると、震源地からたきざわ家のマンションまで8km位しか離れていません。その割に被害が軽微だったのは、活断層が東(神戸市中心部)方向にそれていたためと思われます。震源地が明石よりも遠かったはずの三ノ宮、東灘区、西宮方面が震度7で甚大な被害が出ていることから、直下型地震ではちょっとした偶然が明暗を大きく分けることがわかります。


 地震後の第1夜は、余震が絶え間なく起こり、まんじりともしませんでした。私は、大きな地震には余震というものがあることを初めて実感しました。本当に揺れているのか、気のせいなのか、わからなくなる位に頻繁に起きたため、しまいには、船酔いならぬ「地震酔い」で、気分が悪くなってきたほどでした。朝が来た時、おおげさなようですが、「夜が明ける」ということがこんなにもうれしいことか、と私は感じました。被害が軽微で電気が通じていたたきざわ家でさえそう感じたのですから、被災中心地の人々の不安は察するに余りあります。朝、カーテンを開けると丁度日の出だったため、私は思わず写真を撮りました(写真9)。午前7時、マンションの災害対策本部による館内放送があり、「水道の復旧のめどは立たず」とのことでした。
 午前9時頃、向かいの家の奥さんが、「花園小学校(たきざわ家のマンションの隣にある小学校)で給水中」との情報をもたらしてくれたのみならず、20リットルのポリタンクを2つ貸してくれました(写真10)(注3)。それを持って私は花園小学校へ行き、給水の順番待ちの行列に加わりました。給水車が来ていたわけではなく、小学校の受水槽に残っていた水を付近住民に開放していたのでした。たきざわ家のマンションでは安全確認のためエレベータが停止していたため、私は40リットルの水(40kg)を階段で運び上げました。たきざわ家は5階でしたから大した労力はかかりませんでしたが、20階の住戸の人はさぞ苦労したことでしょう。妻は日頃から「もっと眺望のいい上の階に住みたい」とボヤいていましたが、地震以来そのようなことは言わなくなりました。
(注3)このポリタンクはマンションの水道が復旧した後も、水道の復旧が遅れた私の職場で活躍し、1か月ほど後にお礼(鉢植えの花)と共にお返ししました。
 午前10時50分、たきざわ家は3人で出かけ、妻は臨時開店していたダイエー西明石店への入店行列に加わり(写真11)、私は娘を連れて西明石駅近辺の被災状況写真を撮影しながらミニコープ別所店へ行き、米などを購入しました。パンなどの調理不要な食料は底をついていましたが、それ以外の食料は豊富にあり、生鮮食料品の入荷のトラックも到着していて、それほどの混乱は感じられませんでした。ただ前年の同時期は、凶作による米不足で店頭にパンしか無かったことを思い出し、震災で全く逆の状態になったことに私は言い知れぬ皮肉を感じました。正午頃に3人共帰宅し、娘は昼寝、私妻の2人は朝昼食をとりました。
 それから私は、職場へ向かうことにしました。普段は車で通勤しているのですが、道路の混雑状況は車を走らせられる状態ではないので、電車とバスを乗り継いて行くことにしました。幸い、西明石から姫路・岡山方面への電車はこの日に早くも復旧していました(注4)。西明石駅は、たきざわ家側の東南入口からは入れない状態になっており(写真12)、跨線橋を渡って北側の入口から入りました。北側の駅前ロータリーには、大荷物を抱えた人々がタクシー乗り場で行列を作っていました。タクシーの運転手の一人が行列に向かって「神戸方面へ行く人は無いか」と言ったら、何人もの手が上がりました。行列は神戸方面へ帰る買い出しの人々だったと思われます。
(注4)西明石駅には電車の車庫があるため、大阪方面(東)へ出るのが便利(始発駅なので)なだけでなく、姫路・岡山方面(西)の始発駅にもなります。その結果、西明石は、約1週間後に西明石〜須磨間が復旧するまで、西から通常の公共交通手段でたどり着ける限界点となりました。西明石に住んでいることの便利さを実感しました。
 午後3時46分、西明石始発の姫路行き電車に乗りました。電車内も大荷物を抱えた人々であふれていました。買い出しか、あるいは西へ避難する人々と思われます。大久保駅で下車し、神戸市営バス国道大久保バス停から、運よくすぐに来たバスに乗りました(注5)。
(注5)バス停で待っていた人の話によると、このバスは1時間遅れのバスだったそうです。道路の状態が普通でなかったことなどで、間引き運転をしていたと思われます。
[悔しい余談]
 大久保駅前のパン屋では、ワッフルしか販売されていませんでした。私は、バス停に行く途中の八百屋で、娘の好物であるバナナを見つけて買いました。古いので1房100円にまけてもらいました。西明石ではバナナのように調理不要な食料は店から姿を消していたので、私は得意になって家に持ち帰りましたが、妻は見るなり「これ、腐ってるわ」と指摘しました。確かに異様な匂いがするバナナでした。結局、食べずに捨てました;_;。私は今だにあの悪徳八百屋を恨んでいます。

 午後4時半頃、私は職場に到着しました。管理課の職員は全員出勤していました。研究室は、地震直後に、近くの寮に住んでいる職員らが整理したこともあってか、一見したところでは比較的被害は少なかったようでした。コンピュータのディスプレィが2台ほど床に落下して、外枠にヒビが入っていた程度でした。とり急ぎ、3日ぶりにシャワーを浴びました。それから13日に提出〆切になっていた仕事上の書類を作成し、上司に提出して、夜10時過ぎに、職場に停めてあるミニバイクで帰路につきました。10時25分に帰宅しました。
 私はこの夜にいつもの癖で水道の蛇口をひねったところ、水が出てきました。水道が復旧したのです。洗い物や洗濯などの水仕事をしました(注6)。
(注6)たきざわ家のマンションの災害対策本部の話によると、この時点では水道局からの本管の水圧がまだ元通りでないため、普段と同じ調子で水道を使うのは控えてほしいとのことでした。そのため、食事時などにのみ給水するという調整が1月20日まで行われました。
 なお、水道、ガスの復旧のめどが立たなかった段階で、とりあえず車で山陰方面経由で京都の妻の実家に避難して様子をみよう、ということを相談していたのですが、この時点で水道が不完全とはいえ復旧したので、避難はとりやめました。
 ところで、妻の会社は東灘区にあり、交通手段が無いため、妻は当分自宅待機になりました。

【18日の食事】
 朝昼:前夜の水炊の残りを使った雑炊
 夕:赤飯(近所の饅頭屋で売っていた),きゅうり,トマト,ワッフル,カップスープ

【補遺:水道について】
 今回の地震で、水洗便所が非常に大量の水を消費するものであることを痛感しました。私は、断水時間帯に備えて給水時間中にポリタンク等で水を確保していましたが、給水が開始されてその水が不要になったら、その都度その水を水洗便所の流し水として活用することにしました。そのため流し水のタンクの調整弁(フロート)にヒモをつけて手動で開閉するように細工しました。そのことで後日、調整弁の具合が悪くなり、ある日、たきざわ家が外出中に数時間水が流れっぱなしになっていたという事故を起こしてしまいました。水の有効活用をもくろんで、かえって水を無駄にしてしまった私は愚か者です。


 私は午前7時15分に起床し、各方面から届いていたお見舞いの電子メールへの返事を、パソコンで書いていました。9時頃、妻と娘が起床したので、皆で朝食後、洗濯を2杯しました。正午頃、受水槽の水が底をつき、断水しました。午後、3人で車で私の職場に行き、妻と娘に3日ぶりのシャワーを浴びせました。帰りにコープ西明石に寄り、買物をし、運良くパンを1斤入手できました。午後5時前に帰宅。午後6時半頃に給水開始、午後9時半に再度断水。電気ポットによる沸かし湯でシャワー。その直後に、マンションの災害対策本部の人が来て、ガスが復旧したといって開栓を手伝ってくれました。こうして本震後64時間で、たきざわ家の全ライフライン(電気,水道,ガス)が復旧しました。

【19日の食事】
 朝:食パン半切,ぶどうパン、牛乳
 昼:ポテトピザ,ベーコンピザ(営業していた「ピザ・カリフォルニア」西明石店から持ち帰り)
 夜:焼きうどん(ホットプレートによる調理)



●1月20日
 私は午前8時過ぎに起床し、前夜しそこなった食器の洗い物と洗濯をしました。妻と娘は9時過ぎに起床し、皆で朝食。私はミニバイクで午前11時40分に職場へ行きました。バイクで走った国道2号線は、「緊急車両」の札をつけた車と、リュックを背負ったミニバイクの軍団とが行き交い、普段とは異なった光景が展開されていました。
 職場はまだ断水していましたが、受水槽に残っていた水で食堂は既にその前日から営業していました。この日の午後から私は通常の勤務態勢に戻りました。
 帰ろうとしたところ、私のバイクの後輪がパンクしていました。普段このバイクにあまり乗っていなかったことに加えて、地震により道路の状態が悪かったことが原因と思われます。職場の近くにあるバイク屋(明石市大久保町)で修理してもらいました。そのバイク屋の話によると、震災後、貴重な交通手段としてミニバイクが飛ぶように売れて、品薄になっているとのことでした。私が修理を待っている間にも、店に若い夫婦がミニバイクを探しにきていましたが、店の人に「ホンダのカブしか無い」と言われて帰って行きました。午後7時45分に帰宅し、私は娘とシャワーを浴びました。前夜にガスが復旧したので入浴も可能でしたが、水を節約するため、まだシャワーだけにしておいたのです。皆で夕食。夜9時半に断水。翌朝には給水開始されましたが、この断水が、阪神・淡路大震災によるたきざわ家の最後の断水になりました。

●1月22日
 震災後、ダイエー西明石店には、スライスしていない3斤分ひとかたまりの食パン(1個530円位)が続々と入荷してきていましたが、22日頃からこのパンの叩き売り(1個100円位に値下げ)が始まっていました。パンの売り場はすべてこの「3斤食パン」で占められており、あまりのもったいなさに、私はため息が出ました。とはいえ震災後の混乱の中では仕方ないことです。混乱の中で早急に大量のパンを確保したダイエーの努力をむしろ称えるべきと思いました。
 この日の晩、水道が完全に復旧したとみなされたので、私は娘と晴れて1週間ぶりに入浴しました。

●1月23日
 私の職場の元上司(現在某私大教授)のご家族が神戸市西区伊川谷というところに住んでおり(元上司は奈良に単身赴任中)、この時点で水道,ガス共に復旧していなかったため、私の誘いに応じて、たきざわ家へ入浴に来られました。ご家族全員(元上司,奥様,中学生と小学生の娘さん)と、須磨区に住む奥様のご両親が来られました。これが、今回の震災でたきざわ家がまがりなりにも被災者のお役に立てた、ほとんど唯一の出来事でした。
 ちなみに、上述の神戸市西区伊川谷は、山陽新幹線の橋桁が落下した場所です。西区の被害は神戸市中心部に比べたら軽微だったそうですが、それでもたきざわ家が住む西明石よりは被害が大きかったとのことです。

●1月28日(土曜日)
 道路状況が次第に回復してきたので、たきざわ家は車で、西友大久保店やイズミヤ西神戸店(カナート)などの大型スーパーへ震災後初めて行きました。前者は2階の売り場が閉鎖されており、後者は断水のため飲食街は全店休業で便所も閉鎖されていました。神戸市西区や明石でも、よく観察すると被害が大きいことに気がつきました。

●1月30日
 たきざわ家3人が一人1万円ずつ、朝日新聞社経由で義援金を送りました。

●急拠、京都へ
 1月31日に、京都に住む妻の義兄の母が癌で亡くなりました。たきざわ家は急拠京都へ行くことになりました。交通手段として、妻の会社が社員向けにチャーターしている船を使うことにしました。
 2月1日、たきざわ家は車で、明石市西部の二見人工島にある妻の会社の工場に行き、午後1時発の船に乗り込みました(写真13)。乗客はたきざわ家だけで、不謹慎ながら快適な船旅でした。午後2時20分にその船は、妻の会社の本社がある六甲アイランド(神戸市東灘区)に接岸しました。このときたきざわ家は、被災地中心部の様子を初めて見ました。新交通システム「六甲ライナー」もしくは道路かどちらかのものと思われる橋桁が地上に落下しているのを目の当たりにし、私は言葉を失いました。その船は社員を乗せた後、離岸して、午後3時20分に大阪に着きました。その後たきざわ家は午後7時に京都市山科区の義兄の母の家に着き、通夜に参列しました。
 2月2日は以下の経路を通って帰りました。この時、初めて被災地の中心を通りました。駅名横の数字は時刻です。
  河原町11:51−−−→梅田12:32………梅田14:14−−−→青木14:43……
       阪急特急  阪神百貨店で昼食  阪神特急     徒歩

…青木15:09−−−→三ノ宮15:29……三ノ宮16:04−−−→高速神戸16:10……
     代行バス       徒歩     神戸高速鉄道      徒歩
                     (車両は阪神電鉄)

…神戸16:36−−−→西明石17:10
     JR快速
 阪神特急は、青木(おおぎ)駅に接近すると、安全確認のため低速になり、それまで話声が聞こえていた車内に沈黙が広がりました。窓外は、見渡す限りが崩れた家屋で埋め尽くされていました。乗客は皆、無言で窓外を見ていました。
 神戸高速鉄道は、地震発生時に三宮−高速神戸間にとり残された1編成の車両を使って、単線でピストン運行されていました。車内はすし詰めでした。車内の吊り広告は震災前に吊られたものがそのままになっており、去りし日のバーゲンセールの広告などが悲しく感じられました。まるでこの車内だけ時間が止まっているようでした。

【たきざわ家の被災について】
 震災後、家を点検したところ、図5に示す通り、外・内壁に数箇所の亀裂が見つかりました(写真14)。また、ベランダに細かい亀裂が多数生じていました。マンション全体管理組合による各戸の被害調査が行われ、たきざわ家は3月15日に調査が行われました。明石市による被害判定では、たきざわ家のマンションは「一部損壊」となっています(図6)

●臨時災害FM放送局への受信報告
 兵庫県は、被災者にきめ細かい生活情報を届ける手段として、臨時災害FM放送局の開局を申請しました。その結果、「ひょうごけんさいがいエフエムほうそう」(愛称「FM796フェニックス」)の放送免許が2月14日に下り、兵庫県庁舎(神戸市中央区下山手通)にスタジオと送信所を設置して15日から放送を開始しました。周波数は79.6MHz,出力は300Wで、3月末までの期限付きで放送を行いました。同局は当初、神戸市、芦屋市、西宮市、尼崎市、淡路町の一部の地域をサービスエリアとし、必要があれば東方向に中継局を設置して放送対象地域を拡大することを検討していました。それに基づき2月23日に伊丹中継局が設置されました。しかし、神戸市西区や明石市などがある西方向へのサービスエリア拡大については、特に予告されていませんでした。
 そこで私は、サービスエリアの西端における受信状況を同局に報告することにしました。私の勤務地(神戸市西区)と自宅(兵庫県明石市,マンション5階のベランダ上)とで受信した際の雑音などについての受信状況の報告書を作成し、2月28日に同局へ送りました。神戸市西区と明石市のどちらでも予想通り雑音が多く、アナウンスの内容を所々で聞き落とす恐れがあるという悪い受信状態でした。そこでこの報告書にコメントとして私は、「サービスエリアとされている神戸・阪神・淡路地域よりも被害が少なかったとはいえ、神戸西・明石地域にも情報を必要とする被災者がいます。今後、西方向にも中継局を設置する等の措置を検討して頂ければ有難く思います。」の一文を添えました。図7は、この報告書に対する同局の受信確認証です。
 この受信報告が効いたのかどうかはわかりませんが、同局は3月8日に、明石市役所に中継局(周波数78.1MHz)を設置し、西神戸・明石方面の難聴状態が緩和されました。



 妻の会社は震災後、大阪梅田のスカイビル(空中庭園があるビル)に仮本社を移して業務を継続し、同年夏に六甲アイランドの本社ビルに戻りました。妻は震災後、週2回のペースで仮本社に通勤し、残りの日は在宅勤務していましたが、JR在来線が全面復旧したのを受けて、4月3日からは毎日通勤する態勢に戻りました。
 3月下旬には余震もすっかり収まりました。たきざわ家は自らが大きな被害を受けなかったものの、神戸の街が壊滅したことによる精神的ダメージは相当なものでした。翌年(1996年)のゴールデンウィーク中に、そごう三ノ宮店が復興オープンした際、一家で初日に出かけましたが、その際買い物客でごった返す同店内に入って、私は思わず目頭が熱くなりました。震災に遭うまではできて当たり前だと思っていた繁華街での買い物が、こんなにも幸せなことかと、あの時の感動は今も忘れられません(おかげで同日は散財してしまいました^^;;)。その買い物中に、復興オープンの模様を取材していた関西テレビに妻がインタビューを受け、それが同日夕方のニュースで流れたらしく(たきざわ家は見ていませんでした)、多くの知人から「見たよ」とからかわれました。
 妻は震災2年後の1997年3月に退職し、7月にたきざわ家は私の転勤に伴い東京都昭島市へ移り住みました。阪神淡路大震災の記憶は世間から消えつつありますが、せめて毎年「1月17日」が来るたびに、あの日のことを思い出すように今後もしていきたいと私は思っています。
1995年3月28日初版
1995年5月12日HTML版
1999年1月10日AIP版
2002年3月30日加筆
2013年1月14日修正


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